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「強迫行為の認識」こそ、回復への道 一強迫神経症体験者の試み 

生泉会 明念倫子   

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 私は若い頃から強迫神経症(強迫症/強迫性障害)で苦しんできました。主な症状は、ガスの元栓や戸締りの確認です。詳しいことは拙著『強迫神経症の世界を生きて』(白揚社刊)に書きましたので詳細は省きますが、強迫神経症の苦しさは筆舌に尽くし難く、いまでも脳裏に焼きついています。
 それではそのあたりをもう少し具体的にお話しましょう。

気がつくと強迫行為に走ってしまう  
 何と言っても強迫神経症の苦しさは、立ち直りに時間がかかることです。森田療法と出会い強迫神経症の発症メカニズムを学んだからといって、すぐによくなるとはかぎりません。「だいぶ強迫行為が減ってきたなあ」と喜んでいても、ある機会に自分でも驚くくらい不安が強くなって気がつくと強迫行為に走ってしまう、ということの繰返しです。
 「この確認行為は、強迫行為だ」とわかっていても、どうしても「もう一回だけ確認したい」と身体から突き上げてくる欲望を押さえることができないのです。こうして「確認したい」という欲望に負けて確認行為に走ったとしても、今度は「強迫行為をしてしまった」という罪悪感に悩まされる始末で、心が休まるときがありません。
  一体、どうすればいいのでしょうか。そんなことを考えていると、どこからか「確認したい、という気持ちを我慢することが肝心」という声が聞こえてきそうです。

<我慢>というやり方によらない方法とは
 一般に強迫神経症の世界では、<我慢>ということがよく言われますが、この<我慢をする>ということが強迫神経症に悩む私たちにとっては最大のハ-ドルだといってもいいでしょう。実は、この<我慢>というやり方によらない方法を長い間私は模索してきたのです。
    
「これは強迫行為だな」
 それでは我慢によらないとすると、先程のケ-スにおいてはどういうやり方があるのかというと、私の取った方法はこういうことです。
 強迫神経症を抱え日常確認行為を繰り返していると、そのうち、繰り返そうとする瞬間に「これは強迫行為だな」ということがなんとなく感覚的にわかってきます。何故なら、強迫行為にはそれ特有の<強烈な不快感>があるからです。
  もっとも、「この確認行為は強迫行為だな」、と身体のどこかで認識できたとしても、すぐに強迫行為にストップがかかるということにはなりません。とはいえ、やみくもにではなく「それが強迫行為だ」とはっきりと認識できてさえいれば、たとえ一回は確認行為に出たとしてもそのままズルズルとエンドレスに強迫行為をつづけるということにはならないのです。
  
確かな認識をもって確認行為をする
 ということは、「強迫である」という確かな認識をもって確認行為をすることは、「ほとんど我慢に近い雰囲気がある」といえるでしょう。このように考えられたことが私にとって大きな転機となりました。
  こうして<辛い我慢>という方法ではなく「強迫行為であるという確かな認識もって確認行為をする」というゆるやかな段階を挿入することで罪悪感を楽に乗り越えることができたのです。拙い体験ですが、お試しください。


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